思いは時空を超えて 7
「明日はどっちだ」
弔辞 私の段平―日吉眞夫さんに捧く
私の時代の最大のヒーローは、マンガ 「あしたのジョー」の主人公『矢吹 丈』と言っても過言ではないでしょう。
矢吹 丈は、悪行の限りを尽くすが、丹下段平はあきらめず、ジョーを支え続けます。もし、段平親父がいなかった ら、ジョーは単なるあぶれ者で終わってしまったでしょう。
私と日吉さんとの出会いは、約20年前になります。東京から鹿児島に帰った時、日吉さんの親友で私の師匠であっ た唐牛健太郎の舎弟分で、日吉さんの東京時代の会社の元従業員であった飯田俊さんからの紹介です。
唐牛健太郎は、 60年安保闘争の時の全学連の委員長で、国会議事堂へ最初に飛び込んだ伝説の男です。
私は、2002年から2005年にかけて、精神を病みました。欝と燃え尽き症候群と離人症と妄想が入り混じり、毎日が地獄であり、耳元ではいつも自殺の囁きが聞こえていました。自分が自分でなくなるのを自覚し始めた200
3年9月7日に、日吉さんに救いを求めて屋久島へ行きました。日記には「藁をもつかむ思いで」と、書いてありま
した。 日吉さんは縄文杉のような風貌で、いつもの笑顔で出迎えてくれました。そう、あの笑うと目尻に深い皺が
できる笑顔です。
港についてすぐ砂浜に連れて行ってくれました。一緒に水平線を眺め、貝殻を拾いました。今でも、その時の貝殻を 宝物のようにとってあります。帰りにソフトクリームをご馳走になりました。辛党の日吉さんの心遣いを感じたかっ たのですが、当時の心は無感動でした。日吉さんの家にしばらく草鞋を脱がせてもらうことにしました。翌日は3食 食事が摂れました。日記には、「これは大変なことである」と書いてあります。3 日目の夜は、唐牛健太郎に教わった という花札をして、私の気持ちを紛らわせてくださいました。私が23円勝ちました。
これ以上滞在すると迷惑をかけると思い、9月10日には屋久島を後にしました。日記には、「この3日間、本当 に日吉さんには世話になった。必ずよくなる。焦らない。」と、書いてあります。
日吉さんは、数年前 膵臓腫瘍と屋久島の病院で診断されました。鹿児島大学医学部で再検査し、将来癌になる可 能性があるが手術をすれば治ると、強硬に手術を勧められました。私に相談がありました。手術で助かるかもしれな いが、膵臓腫瘍の手術後は、術前通りの日常生活を送るのは困難な場合が多いと説明すると、自分が自分らしく生き られないのなら、意味がないと、手術を拒否しました。私も同意見でした。その後、膵臓腫瘍は、日吉さんの考えか ら言えば当たり前であるが、眠ったままでした。 昨年、胃癌が見つかりました。既に周辺の臓器まで浸潤していました。日吉さんと相談し、ぎりぎりまで日常性を保 つ最善の手術法を日吉さんは選択しました。周囲の臓器に癌が浸潤していても、胃の癌のみを切除する手術法です。 周囲の臓器を含めて切除する手術法では、日常性が大幅に損なわれる可能性が高いと判断したからです。日吉さんの 美学です。
10月2日に、「生命の島」が届きました。次号で廃刊であるとお知らせが入っていました。日吉さんらしい「引き 際の美学」からと思い、最終号への寄稿を御願いしました。
10月3日、札幌で開催される学会へ行くために、羽田で札幌行きに乗り換えようとしている時、日吉さんから電 話が入りました。原稿の締め切りを聞いたら、切羽詰まっているから、大至急書いて欲しいと言われました。その時、 残り時間は短く、死を感じていたのでしょう。講演が終わり、7日に電話を入れ、10月11日、12日の連休で屋 久島へ行き、日吉さんの顔を見てから書きたいと言うと、それでは間に合わないと言われ、おっとり刀で7日の最終 の飛行機で屋久島に向かうことにしました。7日の夜、かつて病気の私を温かく包んでくれた日吉家で話をしました。
膵臓腫瘍の時から、「死は怖くない」と言い、今回会った時も、そうでした。霊魂の存在を信じておられました。 死を目前にしても、特別なことをするわけでもなく、昨日も今日も明日も同じように生きておられました。尐し体が しんどそうではありました。屋久島の医師からは余命3ヶ月と言われたそうです。「父親の祥月命日が、12日であ り、祖父も12日に死んでいるので、自分は12月12日に死ぬ」と、語られました。
人間が罹る最も重い病気は、「孤独」です。 私が精神を病んでいる時、日吉さんはいつも傍らに居てくれました。鹿児島で一緒に食事に行った時、「すべてに意 味がある」とはげましてくださいました。その場所は今でも鮮明に覚えています。 日吉さんは私にとっては、あしだのジョーの段平親父のような存在でした。病気が治ってからも色々な悩みの相談に ものってもらい続けてきました。
日吉さんは「屋久島」という島にとっても段平親父のような存在でした。屋久島が市場経済の波に飲み込まれ、大量の屋久杉が伐採されるのを阻止した中心人物の一人でもあります。屋久島は歴史的な観点から一つの町であるべきで あるという理念作りも日吉さんであり、実現しました。世界遺産に浮かれ迷走しそうな屋久島を、「生命の島」を通 じて文化面から正し、世界遺産に相応しい島作りに力を注がれました。
虚無に支配されている日本を救うには、段平親父のようなおせっかいで心優しい親父を育成する必要が急務である気 がしてなりません。日吉さんほど、段平親父に相応しい男は、見渡してもいません。生前、もうすぐあの世に「長い 草鞋を履きに行く」と、言っていました。あしたのジョーの歌詞に、「明日はきっと何かある。明日はどっちだ。」と あります。この世に残っている私たちは、これから誰に「明日どっちだ」と相談すればいいのでしょう。 どうぞあの世から、私の明日を屋久島の明日を、そして日本の明日を教えてください。日吉さんはもうこの世には存 在していませんが、私の心の中には実在しています。だから、「さよなら」は言いません。長い間、ありがとうござ いました。またお会いしましょう。
平成20年 11 月23日 堂園 晴彦
あしたのジョー
寺山修司 作詞
サンドバッグに 浮かんで消える
憎いあんちくしょうの 顔めがけ
たたけ! たたけ! たたけ!
俺らにゃ けものの血がさわぐ
だけど ルルル・・・・・
あしたはきっと なにかある
あしたは どっちだ