堂園メディカルハウス

ヒストリー

 

堂園休次郎昔むかし、現在の鹿児島市吉田町宮之浦に堂園休次郎という人がいました。休次郎は小学校の教員をしていましたが、「もっと世の役に立ちたい」と思い立ち、熊本医学専門学校(現在の熊本大学医学部)に入学しました。卒業後は鹿児島県立大島病院に勤め、後に現在の高速道吉田インター料金所近くで開院しました。

医院はその後、吉野無線(現在の鹿児島銀行吉野支店)へと移転しました。

当時の吉野地区にはほかに医者がおらず、休次郎は郡山や竜ヶ水まで馬に乗って往診していました。時には落馬し、馬だけが診療所に帰ってくることもあったそうです。

ハイカラな休次郎は、外出時には必ず帽子をかぶっていましたが声をかけられるたびに帽子を脱いで挨拶することが億劫になり、そのうち帽子をかぶらずに出かけるようになったそうです。また、馬の後は当時日本に3台しかなかったハーレーダビッドソンのサイドカーで往診に出ることもあったそうな。

休次郎の性格は大変温厚で声を荒げることは無いけれども、熱い心をもった人物だったそうです。健康保険制度がまだなかった当時は、診察料を年末にまとめて払ったり、農作物で払う人もいたそうです。そのため休次郎の妻ミネは、豚を買ったりお茶畑をつくったりして診療所の経営を助け、その人柄は「吉野のマッカーサー」と呼ばれるほど肝が据わっていたそうです。

堂園壮意休次郎とミネには3人のこどもがいました。長男の壮意は吉田の宮小学校から鹿児島二中、そして慶応大学医学部へと進み、医者になりました。大学時代には山岳部に入り、山岳部選手として表彰されたこともあったそうです。医学部を卒業すると細菌学教室を経て産婦人科医局に入局しました。

壮意の夢は「ブラジルで医療をすること」でした。残念ながら戦争でその夢がかなうことはありませんでしたが、軍医としてパプアニューギニアに赴任し終戦も現地で迎えました。壮意が他界した際に、戦場で衛生班に所属していた方が語ったところによると「壮意さんは部下を殴ったことは一度もない、とても立派な方だった。医薬品がなかったので、現地の薬草を研究して負傷兵や病人の治療にあたっていた」そうです。

終戦後まもなく、壮意は共研公園前に産科を開院しました。当時としては珍しく、病室にインターフォンを取り入れ、母子同室を実践しました。母親学級も行い、先進的医療に熱心に取り組みました。ま、は抗生物質や強い薬を飲めない妊婦の為に鍼治療を勉強し、名人とまで言われるようになりました。山形屋からタクシーに乗られた方がひどい腰痛に襲われたとき、運転手さんが直接壮意のところに連れてこられ、鍼でよくなったこともありました。

壮意は魚釣りが好きで、週に3回欠かさず海に出かけていました。50代で心不全になったのち年を重ねて入院・出産の体制が体にこたえるようになり、診療所を閉じて鹿児島医師会病院のお産を手伝いました。

枕崎出身の妻、泰子は栄養士・看護師・保健師・助産師の資格を取り壮意の診療所を支える傍ら、准看護師の資格を取るために学校に通いながら住み込みで働く10代の少女を常時15名ほど預り、寝間着を着ている姿をみることはありませんでした。

壮意は、おば吉井サミが開設した、錦ヶ丘保育園・幼稚園(共に吉野)の初代理事長となり幼児教育にも熱心に取り組みました。

堂園晴彦壮意と泰子にもまた3人のこどもがいました。長女は優秀でなんでも一番。鶴丸高校から慶応大学医学部にストレート入学。次女は自由奔放できれいなものが大好き。中学から東京に出てジュエリーデザイナーになりました。長男であり末っ子でもある晴彦は、親の大きな期待もありながら、初の男児としてそれは大事に大事に育てられました。鹿児島大学附属幼稚園、付属中学校、鶴丸高校、2年間の浪人を経て慈恵医科大学に入学します。在学中はヨット部・ラグビー部の活動に勉学そっちのけで熱中しました。

無事国家試験に合格し慈恵医科大学の産婦人科医になると、人が変わったように医学に邁進しました。自ら申し出て月の半分以上はお産の当直をし、技術を磨きました。医局では大川先生との出会いがありました。その大川先生が北海道に赴任し研究室がなくなるが、癌の研究をもっとしたいと思い、がんセンターレジデントに応募しました。

がんセンターでは、3年間日曜を除いてすべて泊まり込み、あらゆる科で最新の医学トレーニングを受けました。レジデントの後は、1年間静岡県清水の社会保険中央病院産婦人科に勤めたのち、慈恵医科大学本院に産婦人科講師として戻ります。

36歳の時鹿児島に戻り、鹿児島大学産婦人科医局に入局しました。1991年には、父壮意が病に倒れた為、堂園産婦人科を継ぎました。とはいえ、当時の堂園産婦人科の建物も老朽が進んでいたため、物置として使われていた中古ビルの1階を改装して「診療所」とは名ばかりの畳6畳の小さな場所からスタートしました。

鹿児島大学病院で手術や放射線などの治療をしたがんの患者さんが再発すると、この小さな診療所を訪れ、外来で点滴などの治療を受けていました。そのうち癌が進行し外来の治療を受けられなくなると、患者さんの希望を受けて癌の在宅訪問治療を開始しました。当時は介護保険制度も整っておらず、また在宅訪問治療もとても珍しい時代でした。医師1名、看護師3名の限られたスタッフでしたが、午前と午後の診察の間に往診に出かけ夜間も患者さんからの連絡があればすぐに患者さんのご自宅に駆けつけました。在宅で看取った患者さんのお通夜の席でご家族から、「先生、是非入院施設を作って下さい」との声をかけられ、それがきっかけとなり、ホスピス建設の構想が具体的になり始めました。

ホスピス機能を持つ「堂園メディカルハウス」が完成する1年前の1995年、父壮意が逝去。吉野の幼稚園・保育園の理事長を引き継ぎます。翌年11月3日文化の日に19床のホスピス診療所「堂園メディカルハウス」が竣工しました。手のぬくもりとおもてなしのシャワーを合言葉に、もう一度いきたくなる・そこで死にたい病院を目指しました。「どこでもドア」ならぬ「どこでもケア」を掲げ、入院・在宅・通院すべてにおいて患者さんが望む医療を提供できるようにとの熱い思いがありました。有床診療所でのホスピスは日本初の試みでしたので「3年で潰れる」との批判も多くありました。

その批判に負けぬためそしてなにより患者さんの為、「医師は24時間365日患者さんの為に生きなくてはならない」を口癖にシャカリキに取り組むさなか、過労から大鬱病を発症…( ノД`)シクシク… 一変して「死にたい」が口癖の暗黒時代となりました。

以後3年鬱病に苦しみましたが、2005年11月10日、「脳の中に光が差している」との言葉をきっかけに快復。患者さんとの出会いに感謝しながら治療に取り組み始めました。

その後10年の間に、鹿児島にも緩和ケア病棟がたくさんできました。ホスピス・緩和ケアのパイオニアとして医療をけん引したいという強い思いで走り続けてきましたが、地域医療を取り巻く制度の移り変わりもあり、2015年12月に入院を辞め、外来と在宅を中心とした医療に切り替えました。図らずも、30年前に診療所を始めたばかりの頃の、原点に戻る形となりました。

ホスピス医療のイメージが強い堂園メディカルハウスではありますが、診療所開設当初より一貫してステロイドを使わないアトピー治療や、慢性疲労の方の治療などにも力を入れています。

一方、晴彦は医療他の活動にも熱心に取り組みました。鹿児島大学の平川先生に「病気も治すけど、社会も治すお医者さんだね」と言われたこともあります。困っている人を見ていると放っておけない、正義感にあふれる人でもあります。

ある時、診療所に「15歳の少年と16歳の娘の間にこどもができた。分かった時にはすでに妊娠8か月だが地元の病院では中絶してくれない。市内だったら中絶してくれると思った。助けてください。」と訴える女性が訪れます。その後、様々な手続きをへて赤ちゃんは特別養子縁組で養親に託されることになりました。この1件をきっかけに、望まない妊娠をした方とこどもを授からないご夫婦との橋渡しをする活動を行い、約40件ほどの特別養子縁組が結ばれました。

2001年には「病ではなく、病を持つ人を診ることができる医療人を育てる」ことを目指してNPO法人風に立つライオンを立ち上げました。

医学生をインド・コルカタのマザーテレサの施設「死を待つ人の家」に派遣し、最新の医療機器はないけれども寄り添う医療とはどういうものかを考える研修を行ってきました。また、この研修で訪れたハンセン病の方が暮らす村「ニヒルマダイ」を訪れた時に、のちのNAGAYA TOWER建設のきっかけとなる閃きを得ます。

その後、構想を練ること数年。老若男女が場を共有する共同体、場の創出を目指し、NAGAYA TOWERプロジェクトが始まりました。

国土交通省より高齢者等居住安定化推進事業の助成を得て平成23年4月「微笑みを交わす人がいれば人生は幸せ」をスローガンにしたちょっと変わった賃貸住宅NAGAYA TOWERが開設しました。住宅と施設の間として在宅ホスピスを行っていましたが、患者さんや御家族の要望を受け、1996年に全国で初めてのホスピス機能を有する有床診療所を開設します。

鹿児島大学時代から衛生学の吉岡講師とともに研究していたビタミンCを用い、ステロイドを使わないアトピー性皮膚炎治療、脱ステロイド治療を行いました。

当時はステロイドを使用しないアトピー性皮膚炎治療を行っている病院はほとんどなく、全国から多くの患者さんが訪れたのです。

そして、外来・入院・在宅を同一スタッフでするコンビネーション緩和ケアシステムにより、年間100名前後の癌患者さんを看取り、在宅死率が約25%を実現しました。

2016年からは外来中心に診療をしています。

現在の行っている治療は

1)進行癌患者への積極的な緩和治療(ゲルマニウムによる免疫療法・高濃度ビタミンC治療など)

2)アトピー性皮膚炎に対するビタミン・漢方・食事指導

3)心身症に対するビタミン・漢方・カウンセリング

4)その他 種々の患者の相談治療

治療内容は可能な限り患者本人の持つ自然治癒力を高めることを目的とし、食事指導を中心とし、化学的薬物を可能な限り使わないようにしています。