堂園メディカルハウス

二代目:堂園 壮意

 

堂園産婦人科(昭和27年ごろ)

堂園産婦人科(昭和27年ごろ)

休次郎とミネには3人のこどもがいました。長男の壮意は吉田の宮小学校から鹿児島二中、そして慶応大学医学部へと進み、医者になりました。大学時代には山岳部に入り、山岳部選手として表彰されたこともあったそうです。医学部を卒業すると細菌学教室を経て産婦人科医局に入局しました。

壮意の夢は「ブラジルで医療をすること」でした。残念ながら戦争でその夢がかなうことはありませんでしたが、軍医としてパプアニューギニアに赴任し終戦も現地で迎えました。

壮意が他界した際に、戦場で衛生班に所属していた方が語ったところによると「壮意さんは部下を殴ったことは一度もない、とても立派な方だった。医薬品がなかったので、現地の薬草を研究して負傷兵や病人の治療にあたっていた」そうです。

終戦後まもなく、壮意は共研公園前に産科を開院しました。

当時としては珍しく、病室にインターフォンを取り入れ、母子同室を実践しました。母親学級も行い、先進的医療に熱心に取り組みました。また、抗生物質や強い薬を飲めない妊婦の為に鍼治療を勉強し、名人とまで言われるようになりました。

山形屋からタクシーに乗られた方がひどい腰痛に襲われたとき、運転手さんが直接壮意のところに連れてこられ、鍼でよくなったこともありました。

壮意は魚釣りが好きで、週に3回欠かさず海に出かけていました。50代で心不全になったのち年を重ねて入院・出産の体制が体にこたえるようになり、診療所を閉じて鹿児島医師会病院のお産を手伝いました。

壮意と、妻、泰子

壮意と泰子

枕崎出身の妻、泰子は栄養士・看護師・保健師・助産師の資格を取り壮意の診療所を支える傍ら、准看護師の資格を取るために学校に通いながら住み込みで働く10代の少女を常時15名ほど預り、寝間着を着ている姿をみることはありませんでした。

壮意は、おば吉井サミが開設した、錦ヶ丘保育園・幼稚園(共に吉野)の初代理事長となり幼児教育にも熱心に取り組みました。

三代目:堂園 晴彦のストーリーへ